少し手が空くと、すぐスマホに触ってしまう。 移動中も、待ち時間も、湯船の中でさえ、何かを見たくなる。 今は、それがかなり自然です。
前回、「その楽しさは本当に自分のものか」と書きました。 今日は、その続きです。
自分にとっての楽しさを自分で感じ分けるには、少し空いた時間が要る。 でも今は、その空いた時間がほとんど残りません。 暇を感じる前に、次の刺激が入ってくるからです。
動画が流れる。 おすすめが出る。 話しかければ返ってくる。 AIが入るほど、この流れはもっとなめらかになる。 その人が離れにくいもの、その人がつい見てしまうもの、その人が考えなくて済むものが、前より自然に差し出される。
それ自体が悪いわけではありません。 助かることもあるし、救われる時間もある。 でも、その便利さの中にずっといると、少し困ったことが起きる。
いつも何かを見ているのに、何を見たいのか分からない。 いつも言葉に触れているのに、自分の言葉が出てこない。 この感じです。
人は、暇そのものが嫌なのではなく、 暇になったときに、自分の中から何かが出てくるのが落ち着かないのかもしれません。
考えないようにしていたこと。 本当は気が進んでいなかったこと。 逆に、理由はうまく言えないのに、ずっと気になっていること。 そういうものは、少し間ができたときに出てきやすい。
だから暇は、ただの無駄ではありません。 外から入ってくるものが少し弱まって、自分の感覚が戻ってくる時間でもある。
もちろん、暇なら何でもいいわけではない。 しんどい日には、何かで気をまぎらわせたほうがいいこともある。 埋めたほうが助かる夜もある。 ただ、暇を全部なくすことが豊かさかというと、私は違うと思います。
たとえば、少しぼんやりしていたら、急にひとつの考えだけが残ることがある。 散歩しているうちに、さっきまでまとまらなかった気持ちが、なぜか少しだけ分かることがある。 何か特別なことをしていないのに、 「あ、自分はこっちなんだな」 と思うことがある。 ああいう時間は、埋め続けていると起きにくい。
暇は、敵ではありません。 それは、自分の楽しさを他人やアルゴリズムに決めきられないための、わずかな余白です。
何が好きか。 何に気持ちが向くか。 どこで「これでよかった」と思えるか。 そういうことは、ずっと埋まっていると分からなくなる。
AI時代に必要なのは、暇をなくすことではなく、少し暇でいられることなのかもしれません。 その時間があるから、人は自分の感覚に戻ってこられるのだと思います。