#7部 — 自分を、どう生きるか

「楽しい」は、なぜ生きる理由になっていいのか

2026-03-19

前回、役に立つことや評価されることの外側に、 「生きていて楽しいか」という基準を置いてもいいのではないか、と書きました。

でも、この言葉には少し抵抗が出やすい。 楽しいなんて、軽すぎる。 そんなものを人生の基準にしていいのか。 もっと立派な理由が必要なのではないか。 そう感じる人も多いと思います。

たしかに、「楽しい」は誤解されやすい言葉です。 ただ刺激が多いこと。 ただ気分がいいこと。 嫌なことから逃げること。 そういう意味に見えやすいからです。

でも、ここで言いたい「楽しい」は、そういうことではありません。 無理がない。 自分の感覚に嘘がない。 この時間を生きていて、ちゃんと自分でいられる。 そういう状態に近いと思っています。

子どものころ、夢中になって何かをしていた時間があります。 意味があるかどうかなんて考えていない。 役に立つかどうかも考えていない。 でも、その時間には確かに生きている感じがあった。 楽しいという感覚は、もともとそういうものだったはずです。

それなのに大人になると、 楽しいことは後回しにされやすくなる。 まず役に立つこと。 まず稼げること。 まず評価されること。 そのあとに余裕があれば楽しいことを。 そんな順番になっていく。

けれどAI時代になるほど、この順番は少し見直したほうがいい。 なぜなら、外側の基準だけでは人の生を支えきれなくなるからです。 成果も、効率も、肩書きも、前ほど絶対ではなくなる。 そのとき最後に残るのは、 自分はどんな時間を「これでよかった」と思えるのか、という問いです。

ここで「楽しい」は、かなり大事な手がかりになります。 なぜか。 楽しいと感じるとき、人は自分から離れていないからです。 誰かの期待をなぞっているだけではない。 無理に演じてもいない。 その時間、自分の感覚と生き方がちゃんと重なっている。

だから楽しいことは、ただの娯楽ではありません。 自分がどこで生きている感じを持てるのかを教えてくれる感覚です。

もちろん、楽しいことだけしていればいい、という話ではない。 しんどいこともある。 面倒なこともある。 責任もある。 でも、その全部を含んだうえで、 この人生を自分のものとして引き受けられるかどうか。 そこにはやはり、「楽しい」が要るのだと思います。

人間の幸福を中心に社会を考えるなら、 基準はもっと単純でいいのかもしれません。 この生き方で、人は楽しく生きられるのか。 肩に力を入れ続けなくても、生きていてよかったと思えるのか。

私は、その問いを軽く見なくていいと思っています。 むしろこれからの時代ほど、 「楽しい」は、生き方を考えるうえでかなりまっとうな基準になっていくはずです。