前回、AI時代にはコミュニティの価値がむしろ上がるのではないか、と書きました。 一人で足りることが増えても、一人で満ちるとは限らないからです。
でも、ここで一つ厄介なことがあります。 居心地がいい場ほど、外から来た人には入りにくく見えることがある。
これは少し不思議です。 本当に感じの悪い場なら、理由は分かりやすい。 冷たい。 排他的。 偉そう。 そういう場には、最初から近づきにくい。
でも実際に難しいのは、むしろ逆です。 中にいる人たちは楽しそうで、仲もいい。 誰も意地悪ではない。 空気も悪くない。 それなのに、初めて来た人だけが、なぜか入れない感じになることがある。
たぶん理由は、居心地のよさが続くと、 その場の人たちのあいだで説明しなくても通じることが増えるからです。 誰がどういう人か。 どこで笑うのか。 何を言うと少し危ないのか。 どこまで踏み込んでいいのか。 そういうものが、少しずつ共有されていく。 すると中にいる人たちは楽になる。 一言で通じるし、空気も読める。 でも外から来た人には、その楽さが見えない壁になる。
たとえば、みんな笑っている。 でも何に笑っているのかが一拍遅れてしか分からない。 誰も冷たくはない。 でも、どこで口を挟んでいいのかが分からない。 質問すれば答えてくれる。 でも、何を知らないと思われているのかすら分からない。 こういう場面は、実際かなり多いと思います。
ここが大事なのだと思います。 場が閉じるのは、誰かが排除したいからとは限らない。 中の人たちが楽になった結果として、外の人が入りにくくなることがある。
これは、場を持つ側にとってかなり見えにくい。 なぜなら、自分たちに悪気がないからです。 むしろ、いい場にしたいと思っている。 楽しくありたいと思っている。 でも、その「楽しい」が続いた先で、知らない人には入りにくい空気ができることがある。
だから本当に大事なのは、盛り上がっているかどうかだけではありません。 その場の楽しさが、初めて来た人にも少し開いているかどうかです。
少し言葉を足す。 いま何の話をしているかを短く説明する。 初めて来た人が分からないまま笑っていないかを気にする。 常連だけが気持ちよくならないように、会話の速度を少し落とす。
こういうことは地味です。 でも、この地味さがある場だけが、長く開いていけるのだと思います。
AI時代には、情報そのものの価値は下がっていきます。 だから人が場に求めるのは、知ることより、入っていけることになる。 そして、入っていける場は、派手さではなく、 知らない人がいても、その人が少しずつ呼吸を合わせられる場 なのだと思います。
いいコミュニティとは、仲がいい人たちだけで完成する場所ではない。 初めて来た人が、まだ何者でもないままでも、少しずつそこにいていいと思える場所なのだと思います。