前回、創ることは、自分の生に参加することなのかもしれない、と書きました。 今日はその続きです。
人は一人でも、かなり多くのものを作れるようになってきました。 考える。書く。整える。試す。 AIもあれば、なおさらです。 だからこそ逆に、今あらためて気になることがあります。
それでも、なぜ誰かと創る意味があるのか。
一人で創る時間には、たしかな良さがあります。 自分のリズムで進められる。 説明しなくていい。 自分の感覚に集中しやすい。 これはとても大事です。
でも、誰かと創ると、一人では出てこなかったものが出てくることがある。 それは、単に人手が増えるからではありません。
自分なら選ばなかった言葉。 自分なら飛ばしていた違和感。 自分なら「まあいいか」で済ませていた部分。 そこに、相手が少し引っかかる。 少し笑う。 少し首をかしげる。 その小さな反応によって、自分の考えが動き出すことがある。
ここで起きているのは、正解の交換ではないのだと思います。 むしろ、ずれです。 そのずれがあるから、自分の見えていなかったものが見え始める。
たとえば、一人で考えていると、話はきれいにまとまることがあります。 でも、どこか予定通りでもある。 そこに誰かが入ると、思ってもいなかった方向から 「でも、それって本当にやりたいことだっけ」 と返ってくることがある。 すると、きれいだった話が少し崩れる。 でも、その崩れ方の中に、むしろ自分に近いものが出てくることがある。
誰かと創る意味は、たぶんここにあります。 自分を手伝ってもらうことではなく、 自分一人ではたどり着かなかった場所に連れていかれることです。
AI時代になるほど、この価値はむしろはっきりしてくるのかもしれません。 一人で整ったものを作ることは、前よりずっと簡単になる。 だから、誰かと創る意味は「足りないところを埋めてもらうこと」ではなくなる。 予想の外へ出ること。 自分の考えを少し動かしてもらうこと。 そのほうが大きくなる。
もちろん、誰とでも創ればいいわけではありません。 気を遣いすぎる相手だと、守ることに力を使ってしまう。 逆に、自分の感覚を置いておける相手だと、ずれそのものが豊かになる。 前に書いたように、無理の少ない関係の中では、自分も出てきやすいからです。
だから、誰かと創るとは、相手を足すことではないのだと思います。 自分の正しさを少しゆるめて、まだ見えていないものが入ってくる余白を持つことです。
一人で創ることが、自分の生に参加することだとしたら、 誰かと創ることは、自分の生を少し広げることなのかもしれません。